お茶と私と、坐禅
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昔の自分には、坐禅のよさなんて正直わからなかったはずです。
そんな体験を、自らやってみようと思う日がくるとは想像もしていませんでした。
実際に坐禅をしてみると、無になれるどころか、頭のなかは独り言で埋めつくされていきました。
この初めての坐禅体験が、坐禅に興味はあるけれど一歩踏み出すか迷っている方の、小さなきっかけになればうれしく思います。
※本文にて掲載している写真は全て、実際に参加した坐禅会のものではなくイメージです。
オーディオブックから始まった、はじめての坐禅体験

最初は「夫の趣味」という感覚だった
きっかけは、夫がよく聞いていた「お坊さんのオーディオブック」でした。
最初は正直、言葉の意味が深く入ってきませんでした。どちらかというと、夫の趣味に付き合っているような感覚の方が強かったように思います。
けれど静かな声で語られる言葉を繰り返し聞いているうちに、少しずつ心に残るようになっていきました。
以前は面白いと思えなかった本が、時間をおいて読み返すと急に響いてくるような、あの感覚に近いものです。
「生身の声を聞いてみたい」と思うようになった
気づけば「いつかお坊さんの生身の声を聞いてみたい」と思うようになっていました。
法事などのきっかけではなく、自分の1つの選択として。
もともとお寺や神社は、行くと気持ちが整うような感覚があり、嫌いではなかったのです。
ご縁の先にあった、人生初の坐禅体験
そしてこの春、ご縁があって、人生初の坐禅体験と講話に参加することになりました。
講話とは、お坊さんのお話を聞く時間です。禅語や仏教の考え方を通じて、日常、そして生き方を見つめ直すような内容でした。
体験レポート 無になろうとするほど思考があふれた時間

「なんとかなるだろう」で始まった坐禅会
坐禅をするのは今回が初めて。
「木の棒でメーンとされるのでは・・・」という不安はありましたが、それ以上に、未知の世界に足を踏み入れることへの好奇心でいっぱいでした。
今回筆者が参加したのは、夜の部。参加者は50代以上のシニア世代が多く、同世代らしき人はほとんど見当たりません。
簡単なストレッチを終えると、足の組み方や心構えの説明があり、そのまま静かに坐禅の時間が始まりました。
静かな空間なのに、頭のなかが騒がしい
私は、開始早々に思いました。 「これは思っていたより、かなり大変かもしれない」と。
足を組んで静かに座る。言葉にするとそれだけなのですが、実際にやってみると想像以上につらかったのです。
お坊さんの目がなければ、きっと私は5分も耐えられなかったことでしょう。
もちろん坐禅中ですから、隣にいる夫に話しかけることもできません。
「修行みたいだな」「みんなすごいな」「あとどのくらいかな」
静かな空間のはずなのに、頭のなかだけは驚くほど騒がしくなっていきました。

「志」という言葉で変わった感覚
そんななか、お坊さんが参加者へ静かに声をかけてくださいました。
「せっかく志をもって、ここにきてくださった。自分の気持ちが無駄にならないよう大切にしてください」と。
その言葉を聞いてから、私のなかで流れが大きく変わった気がします。
「そうか、やらされているのではなく、自分でここへくることを選んだのだ」と。
呼吸のリズムに意識を向けること。
体の芯をまっすぐ保つこと。
思考を使わず、自分自身と静かに向き合うこと。
ほんの少しの間でしたが、初めて心地よい感覚が生まれていきました。
無にはなれなくても、無駄にはならなかった
1回の体験では、無にはなれませんでした。雑念も途中まで何度も浮かんできました。
それでも、自分の意思でこの場所にきたという志は、決して無駄にはならなかったと思っています。
体験後も残り続けた余韻

直接聞く言葉には“温度”があった
その後の講話では、禅語や詩集の紹介を受けました。
静かな空間で、お坊さんの言葉を直接聞く。それは、動画や音声を通して聞いたものとは、どこか違っていました。
うまく説明できないのですが、言葉そのものに“温度”があるように感じたのです。
ここ数年、人から何かを直接語りかけられる機会は、ずいぶん減っていたように思います。
オンラインでのやり取りが当たり前になり、SNSや動画も、自分が見たい情報だけを選ぶ生活になっていました。
もちろんそれは便利です。けれど、自分へ向けて直接丁寧に届けられる言葉には、また別の力があるのだと感じました。
坐禅のあとに生まれた、心の余白
坐禅会が終わり、ふと周りを見渡すと、参加者のみなさんの表情がどこか穏やかに見えました。そしてそれは、きっと私も同じだったのだと思います。
坐禅で余分な感情が手放され、その空いた余白に大切な言葉が入ってきた。
心が掃除をされたような、普段の慌ただしい生活では得られない感覚がありました。
講話で聞いた言葉は、坐禅会が終わったあとも、ふとした瞬間に思い出されます。
静かに心に残り続ける、余韻のようなものになっているのです。
「日常そのものが修行」という禅語
特に印象的だった禅語は、歩歩是道場(ほほこれどうじょう)。
修行には特別な道場は必要なく、食べる、歩く、仕事をする、日常の一瞬一瞬が修行につながっているという意味だそうです。
その話を聞いたとき、私は「修行って、こんなに身近にあるんだ!」と感じました。
慌ただしく過ぎていく毎日のなかで、タイパのよさばかり考え、つい目の前のことをおざなりにしてしまうことがあります。
けれど、早く終わらせるためではなく、その物事に集中する時間として過ごせたらいいのかもしれません。
全部は難しくても、例えばトイレ掃除をするときだけは、余計なことを考えずに掃除と向き合ってみる。そんな小さな修行から始めていきたいと思います。
茶禅一味という言葉が少し分かった瞬間

「ここでお茶を飲みたい」と思った
今回の坐禅会では、茶礼(お茶を分け合う儀式のような時間)はありませんでした。
けれど「もしここでお茶を飲んだら、いつも以上に美味しく感じられそうだな」と、つい想像している自分がいました。
「茶禅一味」が実感に変わった
それは「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」という禅語の存在を、以前から知っていたからです。
禅とお茶には通じる精神があり、今この瞬間に意識を向け、心を整えることにつながる。
そんな意味が込められた言葉です。
体験前も、知識としては理解しているつもりでした。
けれど実際に坐禅をしてみることで「なぜお茶と禅が深く結びついているのか」を、以前より実感した気がします。
お茶の時間にもある、静かな集中
お茶はいわば、動きのある禅のようなものかもしれません。
お茶を点てる、淹れる、香りを嗅ぐ。
1つひとつの所作へ意識を向けているうちに、少しずつ心が静かになっていく感覚が共通しています。
忙しさのなかで“今に戻る時間”をつくる

私たちはどうしても、過去の後悔や未来への不安に意識が引っ張られてしまいがちです。
けれど、実際に生きているのは「今この瞬間」なのです。
講話で聞いた「歩歩是道場」という言葉を思い出しながら、私は目の前のことに向き合うことも、1つの修行なのだと考えるようになりました。
私にとって身近な今に戻る時間は「お茶を淹れる時間」や「料理をつくる時間」です。
立ち昇るお茶の香りや、手のひらに伝わる湯呑みの温もり、鍋から聞こえてくるぐつぐつと煮える音。1つひとつに意識を向けていると、不思議と頭のなかのおしゃべりも静かになっていきます。
真心を込めて淹れたお茶や食事は、不思議なことに、いつもより一段と美味しく感じられるものです。
坐禅は、特別な修行というより、日常との向き合い方を教えてくれる体験でした。
坐禅の時間が「今」に意識を向ける体験だったとすれば、新茶もまた、この季節にしか出会えない「今」なのかもしれないですね。
関連記事:マインドフルネスという休憩のかたち
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